北陸新幹線の座席には、トランヴェールという旅先を紹介した月刊雑誌が置いてある。
私はこの雑誌が大好きで、新幹線に乗車した際は必ず拝見するようにしているが、特に注目しているのは、沢木耕太郎さん著の「旅のつばくろ」というエッセイだ。
私はこれまであまり本を読んでこなかったこともあり、恥ずかしながら沢木さんのことを知ったのは、このエッセイが初めてだ。
沢木さんと言えば「旅」と言えるほど、旅と縁が深い方で、沢木さんの代表作「深夜特急」はバックパッカーの若者が主人公であり、自由奔放な旅の様子が描かれている。
私も「深夜特急」は全6巻購入済みではあるが、現在読んでいる最中の身のため、残念ながらここでは感想を記載できない。
「旅のつばくろ」のエッセイを読んでいるうち、だんだんと沢木さん自身のことを調べてみたくなった。そこで、早速インターネットで調べてみると、これまでにたくさんの作品を世に輩出され、数多くの賞を獲得されている大物作家さんだということが判明したのだが、中には沢木さんがサラリーマンを退社した当時のことについて描かれたページが見つかった。
これが実に興味深い。
沢木さんは大学卒業後、銀行に入行したわけであるが、なんと入社初日に退社してしまったらしい。その時のエピソードが実に滑稽であり、出社途中に信号待ちをしているときに退社を決めたという。
雨が降っていたからともいわれており、深夜特急の2巻P170で主人公が以下の様に語っているが、おそらくは沢木さん本人のことだろう。
なぜたった1日で会社を辞めてしまったのか。理由を訊ねられると、雨のせいだ、といつも答えていた。私は雨の感触が好きだった。雨に濡れて歩くのが好きだったのだ。雨の冷たさはいつでも気持よかったし、濡れて困るような洋服は着たことがなかった。ところが、その入社の日は、ちょうど梅雨どきであり、数日前からの長雨が降りつづいていた。そして私の格好といえば、着たこともないグレーのスーツに黒い靴を履き、しかも傘を手にしているのだ。よほどの大雨でもないかぎり傘など持ったこともないというのに、今日は洋服が濡れないようにと傘をさしている。丸の内のオフィス街に向かって、東京駅から中央郵便局に向かう信号を、傘をさし黙々と歩むサラリーマンの流れに身を任せて渡っているうちに、やはり会社に入るのはやめようと思ったのだ、と。この話に嘘はない。しかし、他人にはそう説明しながら、それとは違う、もう少し別の理由があったはずだ、という思いもなかったわけではない。
このエピソードを知った時、こんな人もいるのかと、私はついほくそ笑んでしまった。
破天荒というか何というか、常軌を逸しているわけであるが、こういう人は私は嫌いではない。何か大物の器を感じる。
いくら仕事が嫌でも、生活やお金のこともあり、仕事を辞めるという決断は早々できるものではない。
ましてや、まだ仕事をしたこともなく研修もろくに受けていない新人が、入社初日で辞めるのである。言うなれば、最速のセミリタイアである。
入社初日というのは人生の大きな転換期であるが、ここで新人社員は2つの気持ちを抱えている。
これからここで働くのだということに強い意欲を持っている者、そして、これからここで一生働くというつまらない人生が待っているのだと思う者。
大抵の人は最初、前者の方の気持ちの割合が多く、働いていくうち、徐々に後者に移行していくと思う。
沢木さんの場合、入社初日の出勤途中で気持ちが後者に100%移ってしまったのだ。
現在私は10年以上今の会社に勤め続けているが、後者の方に気持ちが大分移行してしまっている。私は沢木さんの様に無茶はできず、お金をしっかりと貯め、しかるべき時は安全に仕事を辞めようと思うが、まさに凡人の発想といえよう。
沢木さんの様な生き方や決断ができる人は、セミリタイアを目指す今の私から見て、憧れもするし尊敬に値する。
しかし、沢木さんが入社予定であった、当時の銀行の関係者達はさぞかしびっくりしたに違いなく、そしてこう思ったに違いない、
「こいつは頭がおかしいんじゃないか」と。